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2008年12月17日

那須隆さん死去

那須隆さんが1月に亡くなられたという記事が載りました。12月6日のことです。
15年近く前、意を決した那須さんと現場を歩いたことがありました。いつか私も整理して記事にしたいと思います。

那須さんは、第一審で殺人容疑で死刑が求刑されたのですが、無罪判決が言い渡されました。

未だに判例集には公表されていませんが、殺人については、ごくごく簡明な無罪の理由でした。

那須さんは、苛烈な取り調べに対して、とにかく自白をしなかった、頑張ったというのが自慢でした。
私が「死刑を求刑されてどんな気分でした?」
と尋ねると、那須さんはしばらく考えて、
「うーん、あんまり気持ちのいいもんじゃなかったなぁ…」とぽつり。

暖房のなかった当時の秋田刑務所にも長い間つながれ、大変な苦労をされました。

時効完成後に、真犯人FTが名乗り出たこともあり、再審無罪になりました。

その数年後、病院でFTを見かけ、あっと驚いたとか。

裁判員制度を那須さんはどう感じたでしょうか?

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20081206k0000m040122000c.html
訃報:弘前大殺害事件で冤罪の那須隆さん死去=84歳

那須隆氏=大田原市提供 青森県弘前市で1949年に起きた弘前大医学部教授の妻殺害事件で有罪判決を受けて服役し、再審で無罪となった那須隆(なす・たかし)さんが今年1月24日、同県つがる市の病院で死亡していたことが5日、明らかになった。84歳だった。

 事件は49年8月6日に発生。教授の妻が自宅で殺され、那須さんは約2週間後に逮捕された。一貫して否認したが、4年後に最高裁で懲役15年の有罪判決が確定。63年まで服役した。しかし、時効後の71年、「真犯人」と名乗る人物が現れ、那須さんは再審を請求。77年に仙台高裁で無罪が確定した。

 親族によると、那須さんは出所後、札幌市内の会社に勤め、転勤で青森県へ移った。約10年前、つがる市の妹夫婦宅に引っ越したが、「冤罪(えんざい)のことは思い出したくない」と言ってほとんど語らず、図書館で読書をする日々だったという。

 那須さんは、源平合戦で扇の的を射落とした弓の名手として知られる那須与一の直系の子孫で、那須家の第36代当主。与一生誕の地とされる栃木県大田原市は07年10月、与一や与一ゆかりの品々を紹介する「那須与一伝承館」を開館。那須さんは那須家に伝わる史料約700点を寄託した。これを受け、同市は那須さんに初代名誉館長を委嘱した。【塚本弘毅、柴田光二】

毎日新聞 2008年12月5日 22時40分(最終更新 12月5日 23時14分)


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Posted by bonin at 23:52│Comments(3)法律実務
この記事へのコメント
知りませんでした。
生前お話しすることができてよかったです。
四国の交通事件で、加古川にて受刑されている方について聞きましたが、一度お会いしたいものです。
つながりはありませんか?
Posted by aringe at 2008年12月18日 21:49
aringeさん、寒くなりましたね。お元気ですか?

>生前お話しすることができてよかったです。

私もお話しを聞けて良かったです。

>四国の交通事件で、加古川にて受刑されている方について聞きましたが、一度お会いしたいものです。
>つながりはありませんか?

私も気の毒な話だと思って見ていましたが、今は連絡を取っていません。
弁護人はすぐわかるでしょうから、聞いてもいいですよ。
加古川も寒いでしょうね…。

隣の大久保もホントにきついらしいですよ。
Posted by bonin at 2008年12月19日 00:35
どうして.冤罪事件はなくならないのでしようかざんねんでたまりません
Posted by 横山康代 at 2020年03月26日 22:35
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