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2011年08月08日

那覇都ホテルに残る旧沖縄電気軌道橋梁遺構


このたび永らくの間お世話になった那覇都ホテルに甘え、構内に遺る旧沖縄電気軌道橋梁遺構を見学しました。
同線は、1914年に久米・大門前両大通りの交差する三笑堂文具店前(大門前電停か?)〜首里観音堂電停間が開業。
電力料金の支払いが多額に及んだことから、1917年沖縄電気会社軌道部に組織変更。その際に、那覇方は通堂〜大門前間、首里方は観音堂〜山川間延伸。
1929年に競合するあらかきバス開業により営業不振に陥り、1933年3月廃業したということです。(激動の記録那覇百年のあゆみ=琉球処分から交通方法変更まで=58頁以下)
さて、ホテル側は、客室部ゲストサービスアドバイザー高良寿明さんをエスコートに付けて下さり、橋梁あとを案内して頂きました。

それでは参りましょうか〜、JRの方とか、ゆたかはじめ(石田穣一元那覇地方裁判所判事)さんもいらっしゃいましたよ〜、と歩きながら説明を始めて頂きました。
地下1階の駐車場から傾斜のきつい通路をしばらく歩き、擁壁のたもとにある構築物にたどり着きました。
都ホテルの建つ前、ここは今帰仁原、観光闘牛場があった場所だったそうです。擁壁には、観光闘牛場の広告「ペトリカメラ」の大看板が永年放置されていたとのこと。


ご覧いただくと、バス道から分岐して専用軌道で橋梁になり、擁壁と駐車場の間を通じていたようです。後ろに観音堂駅があり、スイッチバックして山川方面に昇ったようです。
今のバス道の斜面は、急だったから、試運転でスリップしたという話も伝わっているらしいですよ、と高良さん。

良く見ると、軌道を支える鉄骨らしき跡が残っていました。

この遺構を残すよう指示したのは、同社第3代社長となった桑原守也氏(在任期間1976年12月23日〜1988年9月28日)とのこと。桑原社長は、近鉄からKNT常務に移りKNT常務の職にあった最中、第2代社長酒井三郎氏(在任期間1976年4月1日〜1976年11月26日)が急死したことにより、急遽推挙された人物でした。

沖縄都ホテルは、1972年2月10日、復帰直前に日琉合弁会社としての「沖縄観光開発株式会社」として設立されました。内地側はKNT(近畿日本ツーリスト)。琉球側は株式会社アメリカンホートサービス(American Photo Service);イーストマン・コダック社製品の琉球輸入元)で資本金25万米ドルだったとのことです(復帰による1ドル=305円の換算による7700万円となる)




今度は、橋脚を良くご覧になって頂くと、銃痕が残っています。


あっちにもこっちにも、多数の銃弾があたった痕が生々しく残っていました。


さて、足許に目を転じますと復元された松川樋川から水が流れていました。


もう一度地下1階の駐車場に降り、地元のチョウの産卵孵化施設の横を通り抜けると、松川樋川に行くことができます。
都ホテルでは、チョウの孵化・放蝶事業を行っており、地元の小学校などに右にある幼虫の食べるキョウチクトウの葉っぱの植木等の提供も行っているそうです。

松川樋川は、先の大戦で地形が変わったため、所在が判らなくなったのですが、都ホテル建設の際に所在が判明し、ホテル建設事業と併せて松川樋川発掘保存事業を進めたそうです。今も松川樋川は、この水を額につけると、いつまでも若々しく、長寿に恵まれる「美女樋川」として、拝みに来る人が絶えないそうです。
昔は、この樋川のおかげで松川美女が沢山いたのですが、首里の男性が次々と手を出したためにやがては、松川やなかーぎばかりになったよという話も残っているとか残っていないとか…。


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Posted by bonin at 17:22│Comments(0)社線
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